買取実績
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掛軸
広瀬淡窓
「初春雨中作」
- 買取地区:
- 名古屋市内
- 買取方法:
- 店頭買取
買取価格¥10,000
江戸後期の儒学者・廣瀬淡窓(ひろせ たんそう)の掛軸を買取いたしました。「初春雨中作」は淡窓の七言絶句です。漢詩は難しいのですが、少し読み解いてみたいと思います。
鳥未遷喬花未開
牆陰殘雪尚成堆
誰知東帝回春處
却自空濛蕭瑟來
鳥は未(いま)だ喬(たか)きに遷(うつ)らず花は未(いま)だ開かず
牆陰(しょういん)の残雪 尚ほ堆(たい)を成す
誰か知らん 東帝回春の処(ところ)は
却つて空濛(くうもう)蕭瑟(しょうしつ)より来たるを
遷喬(せんきょう):冬の間、深い谷にひそんでいた鳥が谷から出て喬木(きょうぼく)に遷ること。
花:ここでは春の様々な花を総称していると解釈されますが、こちらの掛軸では「花」ではなく「梅」となっています。
誰知:反語となって文意を強めており、直訳すると「誰が知るだろう、いや誰も知るまい」となります。
いかにも春を思わせる明るい晴れやかな処からではなく、ぼんやりした温かい雨のしめやかな気配の中からやってくることを強調しています。
東帝:東帝は春を司る神、東皇に同じ。「東」は春の方位。
回春:季節がめぐって春になること。
空濛:小雨や霧などの影響で空がぼんやりと煙るさま。
蕭瑟:「蕭」は風や落葉のものさびしい音、「瑟」は大形の琴ということから、ものさびしいさま、ひっそりしめやかなさま。
春になると谷から出てくるはずの鳥は来ず、梅もまだ咲かない。立春は過ぎたものの春は遠く、野山にも里にも冬の名残が見えるような時期です。「東帝」は春を司る神という意味で、この東帝の計らいで春はめぐってくるとされます。中国では四季を四方位と重ねたため、春は東、夏は南、秋は西、冬は北がそれぞれを象徴しており、日本の漢文もこの習慣を踏襲するそうです。
春はどこから来るのか。春の神である東帝が季節を回らせて来るのは、鳥が囀り花咲く野山や里のような、いかにも春を思わせる明るい晴れやかなところからではなく、細かい雨に煙ったしめやかでものさびしい空からなのでしょう。
古代より日本では、季節は来ては去る旅人のように詩歌に詠われていました。初春雨中作は、四季は一体どこから来てどこへ去るのか、という疑問に対してのある一つの考えなのかもしれません。
廣瀬淡窓は1782年、豊後国日田(現在の大分県日田市)の豪商 広瀬家の五代目である父・三郎右衛門と、母・ユイの長男として生まれ、幼名を寅之助、のちに求馬・簡・建とも名のりました。廣瀬家は1673年、初代五左衛門が博多から日田の豆田町に移住したのに始まるといわれています。商家で屋号を堺屋、のちに博多屋とし、四代目平八(月化)のときに経営の規模を拡大しました。
淡窓は生まれつき病弱だったため、家業は弟の久兵衛に譲り、早くから生涯を学問と教育にささげました。2歳の時、伯父・平八の下で養育されるようになり、秋風庵という場所に移りました。平八は家督を弟の三郎右衛門に譲り、堀田村(淡窓町)に秋風庵を建てて隠居、秋風庵月化と称して俳諧の宗匠となりました。咸宜園跡に残る茅葺の家屋は平八の建てたものです。静かな田園風景の中でのびのびと育ったことが、淡窓の豊かな感性を育んだと考えられています。
淡窓は6歳で父のもとに戻り、習字や『孝経』の講義を受け、長福寺の法幢上人からは『詩経』を学びました。8歳の冬には四書を全てを読み終わり、さらに『詩経』の句読を近くのお寺で教わるほど熱中していました。16歳になると、福岡の亀井南冥が主催する亀井塾で儒学を学びましたが、大病を患ったため、わずか3年で帰郷します。妹・アリ(秋子)の看病により命をとりとめたものの、将来を案じる日々が続きました。
1802年21歳になった淡窓は、近くの寺で行われていた講義を引き継ぎ、少年6~7名に対して講義を始めます。淡窓にとって、子どもたちに対して講義を行うのはこれが初めてのことでした。1805年3月、長福寺の寮を借りて初めて塾を開き、さらに同年8月には転居し「成章舎」と名付けた塾を開きました。
このような状況の中、淡窓を決心させたのは「学問教授は天命だ。それで身が立たぬなら飢え死にするまでだ。」という医師・倉重湊の厳しい言葉でした。その後の1805年24歳の時、入門者の増加に伴い、咸宜園の前身となる学舎・桂林園を開きます。塾は廣瀬家の支援も得て発展していきました。
1817年の春、淡窓は桂林園を移設し「咸宜園(かんぎえん)」を開きました。この塾名の由来は、『詩経』の中の言葉「咸宜(ことごとくよろし)」から名付けられたと言われています。「ことごとくよろし」とは、全てのことがよろしいという意味で、言葉通り塾に学ぶ者は平等であり、入学に際しては名簿に必要事項を記入すれば、身分、年齢、学歴に関係なく横一線で学習を始めることができました。
これらは「三奪(さんだつ)の法」という封建制度の当時ではユニークな教育方針で、入門者は身分や学歴、年齢は関係なく平等に最下級からスタートし、厳格な試験によって進級を定めるという評価制度を用いて、日本最大規模の塾「咸宜園」を作り教育に当たりました。
塾生の生活は、毎朝5時に起床、6時から7時まで輪読し、食事の後は8時から正午まで学習、昼食後1時から5時まで輪講・試業(試験)、6時に夕食、7時から9時まで夜学して10時に就寝するという日課でした。想像するだけでも1日の勉強量がすごいですね。誰にも平等ではありましたが実力主義でもあり、勉強は厳しかったといいます。毎月の試験成績によって無級から九級にまで位置づけされ、講義はもちろんのこと、会計や食事、清掃など塾の運営から図書の管理までを塾生の分担で規律正しく進められました。学力だけでなく、社会性や人間性を育む教育システムだったと言えますね。
淡窓は共同生活を重視して塾生が人格・学問共にすぐれた人物になることを願いました。こうした淡窓の教育方法が評判を呼び、全国から人々が駆けつけたました。50年間で約3000人が学び、塾生が来なかったのは下野、甲斐、隠岐、大隅の4か国だけでした。塾生が集まり、時には200人を超えたため寮制を敷き、閉塾までの80年間に入門者は4800人といわれており、門弟の中には、先覚者・高野長英、政治家・大村益次郎、写真家・上野彦馬、儒学者・中島子玉、漢学者・長三州など、明治維新の担い手や、日本の近代化に活躍した人々も多く含まれています。淡窓は学者・教育者・詩人として一流でありましたが、何よりもすぐれた人格の持ち主だったことが伺えます。
54歳のとき、日々善事を積み重ね「一万善」を達成する決意をします。毎日善いことを行い、3つ行ったならば白丸印を3つつけ、悪いことを2つ行ったときは黒丸印を2つつけるというものでした。その差し引きで、67歳の時には一万に達しました。さらにそれを73歳まで続け、さらに五千善を加えるほどになりました。
病に苦しみながらも教育者という天職を得た淡窓は、1856年11月1日にこの世を去りました。75年の人生を全うし、生涯かけて内省と修養、積善積徳に努めた人物でした。
歴史と文化の町、大分県の日田に淡窓が開いた私塾・咸宜園はありますが、広かった敷地のうち東塾の跡に、秋風庵、遠思楼などが残されており、1932年に大分県で最初の国史跡に指定されました。その近くには淡窓の生家があり、現在は廣瀬資料館となっており、常時500点ほどの収蔵品を展示しているそうです。ぜひ一度訪れてみたいものですね。
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