買取実績
買取実績
掛軸
木村武山
「梅」
- 買取地区:
- 名古屋市内
- 買取方法:
- 店頭買取
買取価格¥30,000
木村武山(きむら ぶざん)の掛軸を買取いたしました。こちらは絹本で共箱となっております。作品名が「梅」ですので、飾るのは冬から春への移り変わりにかけてでしょうか。梅は草花が枯れる冬を越え、春一番に花を咲かす特徴が生命力の象徴として考えられており、縁起も良く、古来より多くの画家が傑作を残してきた画題です。枝にはスズメがおりますが、最近スズメが絶滅危惧種の基準に相当するペースで急速に減少していることをテレビで知りました。温暖化によって生息に適した地域が減少したり、里山やその周辺の管理が行われずに環境が変化したことが影響しているとみられるということですが、皆さまのご自宅の近くにはスズメはいますでしょうか。
木村武山は、1876年に茨城県笠間市の旧笠間藩士・木村信義と春の長男として生まれました。武山は幼い頃から絵の才能がありましたので、父は3歳から絵を習わせました。武山が絵の道に進むことができたのは、父の深い愛情と暮らしの豊かさがあったためだといわれています。
1890年、笠間小学校を卒業すると東京の開成中学校に入学、同時に川端玉章に師事します。中学2年を終えた1891年に岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校の日本画科に入学します。3年先輩に横山大観と下村観山、1年先輩に菱田春草がいました。大観は同校卒業後に京都市美術工芸学校教員などを経て3年後に母校の助教授になりましたが、天心がもっとも才能をかっていたとされる観山は、卒業と同時に助教授に抜擢されており、武山が卒業する時には、観山は武山の先生という立場にいました。そんな観山に武山は心酔し、大きな影響を受けました。
1896年に卒業すると橋本雅邦の門に入り、狩野派の奥義を学びます。同年、卒業後は岡倉天心が率いる日本絵画協会に参加します。1897年に平泉の中尊寺金色堂の修復作業が国から東京美術学校へ依頼されると、武山は助手として参加し、仏像や仏具などの名宝に接する機会を得ます。この時の経験により仏画に惹かれていくようになります。
1898年、岡倉天心が校長の職を辞職するという美術学校騒動が起こります。天心は自分を慕って東京美術学校を辞めた大観らと東京の谷中に日本美術院を創設するとともに、展覧会を開催して若手育成に努めました。武山はこの展覧会に出品して評価されます。
1906年、日本美術院の五浦移転に際し、大観・春草・観山・武山の4人が家族ともども五浦に移ってきました。11月末のことで、冷たい雨が降っていたと伝えられています。五浦は茨城県の北東部、福島県との県境に位置し、太平洋の大波を真正面に見渡す自然豊かな地です。もともとこの地に天心を案内したのは、日本美術院の若手画家・飛田周山でした。自然と芸術の調和を追求してきた天心は、五浦こそその理念に合致し理想を象徴する場所と考えます。
当時の五浦は不便で経済的にも苦しく、大観の「生活は乞食にも近かった」という回想などから、皆苦労の連続だったと思われます。実際どうだったかは分かりませんが、興味深いエピソードもあります。天心は4人に住む場所を自分で選ばせ、その居宅を自分のイメージで設計させています。残された図面には、中二階を設けて踏み石のアプローチを深く母屋の置くまで取り込んだ大胆な空間感覚を持つ大観や、健康のためか「正辰巳(東南)向」と指示した繊細な配慮を見せる春草、紙のサイズ一杯に使う律義な観山、井戸と台所の距離を指定する武山の家族愛など、それぞれが個性を発揮して描いています。画家の性格が出ていて面白いですね。
当時、財政的にも崩壊寸前となっていた日本美術院を改組・縮小して、東京・谷中から五浦の地に移し、天心は自ら移り住むとともに、四人の愛弟子・大観、観山、春草、武山をこの理想郷に呼び寄せ、ここから天心は新日本画運動の起死回生を図りつつ、美術運動の指導者としても新たな展開を試みていくのです。
この地で武山は代表作ともいえる「阿房却火(あぼうごうか)」を描き上げ、1907年の第1回文部省美術展覧会(文展)に出品して3等賞となり、日本画家の第一人者の地位を築きました。武山は他の3人がそれぞれの事情で五浦を離れても最後まで五浦に残り、天心の没後に東京の谷中天王寺(東京都台東区)に本拠地を移しました。
武山は精力的に制作を続けながら後進の指導に努め、多くの弟子を育てました。またとても面倒見の良い人といわれており、弟子が集まる日には神戸から牛肉を取り寄せて牛鍋会を開きました。当時武山の作品はとても人気があり、ひっきりなしに注文が来るため、絵を描かない時間は食事の時だけで、夜中の2時、3時まで描き続けていたそうです。笠間の実家にも画室を持ち、ここでも制作や指導を行い、笠間を中心とする美術の発展に大きな功績を残しました。
1914年の日本美術院再興以降は同人として参加し、再興第一回展には『小春』を出品します。その画風は色彩感覚に優れ、写実的な描写力と古典を学んだ素養を生かしています。
順調に思えていた武山の人生ですが、1937年2月に突然脳出血で倒れます。幸いにも命に別状はありませんでしたが、画家の生命ともいうべき利き手である右手の自由を失いました。60歳をこえていましたが、左手で絵筆を使う訓練を重ね「左武山」の異名をとるようになります。左武山になってからも旺盛な制作活動で、花鳥画などを多く残しました。また武山は「仏画の武山」と称されるほど仏画に優れており多く描きました。
晩年には大日堂の壁画に情熱を捧げ、脳溢血で倒れた後も左手で描き続けました。大日堂は、武山が昭和初期に亡き母のために生家邸内に建立した仏堂で、平泉中尊寺金色堂を模して建てられました。右側壁の虚空蔵菩薩は、初めて左手で描いた仏画といわれています。 しかし武山は完成を見ずに 1942年、67歳で死去しました。
武山は技巧が確かで壮麗な彩色にすぐれ、代表的な大作としては東伏見宮御殿御襖絵「群鶴之図」、久迩宮御殿御襖絵「菊花之図」、聖徳記念絵画館「明治天皇徳川家行幸図」、高野山金剛峯寺金堂内面壁画などがあります。大正期に入り花鳥画にも本格的に取り組み、琳派が多用したたらし込みの技法を用いるなど、写実と装飾性の融合を進めながら独自の世界を模索していきました。また、古い仏画の名品を模写するなどして研究を深め、神社仏閣や個人宅の障壁画を数多く制作しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北岡技芳堂では、絵画、掛軸、骨董品、刀剣類などの美術品全般を幅広く取り扱っております。
売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を承ります。
遺産相続に伴う評価書作成も行っております。
何から始めたらよいのか分からない場合も多いことと存じますので、
ご不明なことなどございましたら、まずはお気軽にご連絡くださいませ。
愛知県、三重県、岐阜県、静岡県を中心に、全国への出張買取も行っております。
【北岡技芳堂 名古屋店】
460-0018
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話:0120-853-860
営業時間:10時〜18時
定休日:日曜(出張が多いため、ご来店の際はご予約をお願いいたします)
#骨董品買取#骨董品#古美術#絵画#版画#茶道具#陶芸品#日本刀#彫刻#金#掛軸#現代アート