買取実績
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水彩画
安井曾太郎
「夕月と桜」
- 買取地区:
- 名古屋市内
- 買取方法:
- 店頭買取
買取価格¥80,000
近代日本洋画の巨匠、安井曾太郎の水彩画を買取りました。安井曾太郎の作品をお持ちのコレクターは、かなり通で絵がお好きな方なのかなと思うことがあります。
絵の具の使い方が上手く、色の濃淡も見ていてとても気持ちが良いです。素早く描きながらも均整がとれており、春の肌寒さと桜のほのぼのとした暖かさも伝わってくるようです。お月様の部分は絵の具を塗らずに表現されていますが、それがまたなんとも言えない雰囲気を醸し出していますね。淡彩で小品でありながらも、安井曾太郎の力量をしっかりと感じることのできる作品です。よい作品は何度も眺めてしまいますね。少々額が傷んでおりましたので、少し華奢な無垢材などで額装をしてマンションの一室に飾ったりするとよいかもしれません。
安井曾太郎は、1888年に京都の木綿問屋の五男に生まれます。当時の商人の息子の常として商業学校に入学しましたが、絵の道に進むため、反対する親を説得して1903年に京都市立商業学校を中退します。その後、同校の図画教師であった平清水亮太朗の家に通い、一年余りデッサンや水彩画を学びました。
1904年、浅井忠の率いる聖護院洋画研究所(後に関西美術院となる)に入門、浅井忠や鹿子木孟郎の指導を受けます。同時期に梅原龍三郎もここで学んでいました。
1907年、津田青楓とともに渡仏します。アカデミイ・ジュリアンに入り、ジャン・ポール・ローランスの薫陶を受け、素描コンクールにおいて度々首席の成績を収めました。滞仏中はセザンヌに強く影響を受け、独自に研究を重ねます。ヨーロッパには約7年滞在しましたが、フランス以外にもルネサンス彫刻やエル・グレコの作品にも興味を持ち、1912年にはヴェントイユ、イギリス、オランダ、ベルギー、スペインも訪れています。
1914年、第一次世界大戦が勃発してドイツがフランスに宣戦布告したことに加え、安井自身の健康も悪化していたため日本へ帰国します。1915年、第二回二科展に滞欧作44点を特別展示して識者の注目を集め、一大センセーションを巻き起こし、一躍画壇の花形となりました。その後も毎年二科会に作品を発表しますが、ここから10年ほどの間は安井にとって画業の低迷期となります。健康が回復しなかったことに加え、フランスと日本の風土の違いにも苦しみ、アンドレ・ドランやピエール・ボナール等の感化を示しながら、自身の画風を模索する期間でした。
1930年頃、遂に肖像画や静物画、風景画に自己の様式を見出し、いくつかの名作を描きました。10年近い模索期を経て、肖像画の分野で安井様式と呼ばれる独特の表現を獲得します。
1935年、帝国美術院会員に任命されると共に二科会会員を辞めます。もともと文展に対抗して組織され、在野の立場を貫く二科会の方針から、安井は同会を離れざるをえませんでした。翌年、有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成し、生涯同会の委員を務めました。
1937年頃に満洲、朝鮮、熱河、京城などの風景画を制作し、以後は上高地風景を描きます。1944年、梅原龍三郎と共に東京美術学校教授となり、熱意を持って後進を指導しました。
1948年、湯河原に移り病身をいたわりながら制作を続け、多くの人物画や静物、風景を描きます。1949年、日本美術家連盟の創立とともにその会長に推され、終生同連盟の発展につくしました。同年に湯河原の天野屋別館を借りて移り住みます。120段の階段を登ると、以前竹内栖鳳が使っていた画室があり、そこで制作に没頭していたそうです。
1952年、多年の功労によつて文化勲章を受けます。 安井は、大正初年以来終始梅原龍三郎と並び称されました。滞欧作以来、絶えず発展を示したその芸術は近代洋画の中軸をなしましたが、その作風は写実精神に貫ぬかれています。
1954年、天野屋別館の向かいの山頂に自宅とアトリエを新築します。湯河原の画室から見える山の風景を好み、その山をセザンヌが繰り返し描いた南仏のサント=ヴィクトワール山と重ねていたようです。見晴らしがよい素晴らしい景色に一層制作が進みますが、翌年風邪をこじらせ気管支性肺炎を患います。しかし、自らが会長を務める日本美術家連盟の展覧会に出品するため、体調不良を押して《秋の城山》の制作にあたります。それがたたってか、数日後の12月14日に帰らぬ人となりました。
1956年、ブリジストン美術館と国立近代美術館で安井曾太郎遺作展が開催され、12万人以上が来場しました。安井曾太郎は、生前から高い評価を得て当時の画壇をリードし、その影響力は絶大でした。独自のリアリズムの追求に邁進した作品は、大正期に産声を上げた前衛絵画に比べると、多くの人は発表される作品を安心して心待ちにすることができたようです。
【安井曾太郎 略歴】
1888年 京都市中京区、木綿問屋を営む安井元七の五男として生まれる、母よね
1894年 京都市生祥尋常小学校に入学
1898年 京都市立商業学校に入学
1903年 洋画家を志して同校本科1年修了後中途退学、同校の図画教師平清水亮太郎につき鉛筆や水彩画を学ぶ
1903年 聖護院洋画研究所(のち関西美術院に発展)に入所
1904年 夏、浅井忠の研究所に入り、浅井忠、鹿子木孟郎の指導を受く
1906年 3月、関西美術院創立され同院に移る
1907年 4月末、津田青楓と同行渡仏、6月パリのアカデミイ・ジュリアンに入学し、ジャン・ポール・ローランスに師事、リュ・ドゥ・テアートルに住み12月にパリ郊外ヴィトリーに移住
1910年 アカデミイ・ジュリアンのジャン・ポール・ローランス教室を去り、リュ・ドゥ・ヴォージラルにアトリエを持つ
1913年 秋、小川千甕と共にイタリアに見学旅行
1914年 この頃より体調を崩す、8月、第一次世界大戦勃発と病のため主要作品45点を携えてロンドンに逃れその後帰国
1915年 第2回二科展に滞欧作44点を出品、二科会会員に推挙
1922年 平和記念東京博覧会洋画部審査員となる
1923年 長男慶一郎出生、震災後しばらく京都に滞在する
1931年 外房太海にて風景画を製作
1934年 東京都新宿区に自宅、アトリエを新築して転居
1935年 帝国美術院会員を任命され二科会会員を辞す。
1936年 有島生馬、石井柏亭、山下新太郎らとともに一水会を創立
1937年 満州国美術展審査のため藤島武二と共に新京に赴き、帰途熱河承徳にて製作、7月帰国
1938年 中耳炎を患った後、静養のため上高地に滞在、風景画の連作を制作する
1942年 痔疾手術、湯河原に静養して制作
1944年 梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に就任
1945年 埼玉県大里郡に疎開
1946年 第1回日展審査員となる、帯状疱疹により眼を病み出京、治療を受ける
1948年 静養のため湯河原、熱海に滞在
1949年 初夏、神奈川県湯河原天野屋別荘(旧竹内栖鳳画室)に居を移す
1950年 この年から『文藝春秋』の表紙絵を制作する
1952年 東京芸術大学教授を辞任、11月、梅原龍三郎と共に文化勲章を受章
1955年12月14日、心臓麻痺のため逝去、 享年67歳
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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。
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