買取実績
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版画
山下清
「日本平の富士」リトグラフ
- 買取地区:
- 一宮市
- 買取方法:
- 出張買取
買取価格¥30,000
山下清のリトグラフを買取いたしました。テレビドラマや長岡の花火というように、様々な山下清を皆様想像されるのではないでしょうか。
1922年に東京の浅草で生まれた山下清は、幼少の頃に大病を患い、軽い言語障がいと知的障がいが残ったとされています。吃音や発達障がいのため周りに馴染めず、小学校ではいじめにあいました。
12歳になると、千葉県の養護施設「八幡学園」に預けられました。そこで授業の一環として行われていた「ちぎり絵」に出会います。当初は色紙を大きくちぎって作品にしていましたが、だんだんと紙片が細かくなって上達していき、これを発展させた「貼絵」という独自の手法でその画才を大きく開花させました。
学園生活では、友人や先生、その時に起こった出来事などが描かれるようになり、この頃の作品からは少しずつ周囲へ心を開いていったことが伺えます。同時期には、静物画の制作にも熱心に取り組んでいました。細かなちぎりや細く紙を撚ることで、画面全体に立体感が生まれているのが特徴の「ゆり」(1938)は、物資の少ない時代に、絵具ではなく古切手などを利用して制作された貼絵で、色彩豊かに仕上がっています。
1937年から数回にわたり、八幡学園の子どもたちの作品展が東京で開催されていました。そこで山下清の作品が画家安井曾太郎の目に止まり、絶賛されたのもこの頃のことです。
16歳のときに初めての銀座の画廊で個展が開催され、梅原龍三郎に「作品だけからいうとその美の表現の烈しさ、純粋さはゴッホやアンリ・ルソーの水準に達していると思う」と高く評価されました。のちに日本のゴッホと呼ばれたのはこの出来事が由来のようです。そんな山下清は、ヨーロッパ旅行の際にゴッホの墓を訪れ「ゴッホは可哀そうだ。生涯で絵が1枚しか売れていない。死んでから有名になっても嬉しくないな」と語っていたそうです。
1940年、18歳のときに突如八幡学園を脱走します。放浪は学園周辺の千葉県市川市から、その後全国に足を運んでいきます。旅先で目にした風景を緻密な貼絵で制作、その完成度の高さから大きな注目を集めるようになります。
山下清といえば「裸の大将放浪記」のイメージが強いのではないでしょうか。ドラマの中ではスケッチブックを抱えている姿でしたり、旅先で貼り絵を作成したりしていましたが、実際に旅先では仕事の依頼があったとき以外は画材道具やスケッチブックは持参していなかったそうです。日記に旅の目的とは「美しい自然を楽しむこと」と書かれており、半年から1年間の放浪を繰り返し、旅先で見た風景を自分の脳裏に鮮明に焼きつけ、東京に戻った際に自分の記憶によるイメージを描いていたそうです。日本各地を自由気ままに旅する生活を好んだ清は、一度目にしたことを細部まで正確に覚えるといった、驚異的な映像記憶力を持っていました。
放浪中に描かれた代表作とも言える「長岡の花火(1950年)」は、細かなちぎりで表現された群衆と、漆黒の夜空に浮かぶ立体的な花火の対比が美しい作品です。長岡の花火大会には1949年に行きましたが、この作品を制作したのは翌年の1950年。去年の花火でも、この夏に見たように生き生きと描かれています。長岡(新潟県)、両国(東京都)などの花火や、鹿児島の桜島や開聞岳を好み、これらに関する作品を生涯数多く残しました。
自宅で貼絵を作っている時は、傾斜のついた作業台に色紙を短冊状にちぎって並べて作業をしていました。左手に短冊状の色紙を握り、右手の親指と人さし指でちぎり、中指にのりをつけて、台紙に塗りながらどんどん紙片を貼っていきます。リズムを大事にしており、とても早かったといいます。清は指が太かったそうですが、とても細かくちぎることができました。手でちぎることにより切り口の白色が見え、微妙な色のグラデーションがきれいに出せるため、はさみは使用しませんでした。
山下清の作品がアメリカのグラフ誌「LIFE」で紹介され、清の行方を追い始めたことから、1954年に朝日新聞社が大捜索記事を全国配信しました。1月、鹿児島県内で高校生が清を発見し、放浪に一区切りをつけます。その年のうちに新聞で山下清の日記「放浪記」が連載され、1956年に東京の大丸百貨店で開かれた個展は、なんと80万人を集める大盛況となりました。
約14年間の放浪を経て日本中をほぼ歩いてしまった清は、1961年39歳の時にヨーロッパを中心都する12か国を約40日間で巡る取材旅行へと旅立ちます。街並みや風景はより写実的に捉えられており、貼絵や水彩画、ペン画で残されています。
1956年以降、日本各地で展覧会が開催される際に、その土地の窯元を訪ねて陶磁器の絵付けを行っていました。この頃には目の不調のために細かい作業である貼り絵制作を控え、マジックペンによるペン画などの手法を多く手がけました。油彩や水彩画、陶磁器の絵付けにも挑戦するなど、創作活動の幅はますます広がりをみせますが「今年の花火見物はどこに行こうかな」という言葉を最後に、1972年、脳溢血により49歳でその生涯を閉じました。
どうしても「裸の大将」のイメージが強く、ドラマの中のイメージが先行してしまいますが、作品を見ると、梅原龍三郎や池田満寿夫といった巨匠たちの賞賛が物語るように、画家としての山下清本来の姿が見えてくるように思います。
人並みはずれた記憶力の持ち主で、作品を制作するときも自分で決めた作業時間を忠実に守り、とても几帳面な性格だったといいます。また、いたずらが大好きで負けず嫌いの面もあり、子供相手でも絶対に手を抜かず、トランプでも何でも自分が勝つまでやめませんでした。放浪時代は着の身着のままの姿でしたが、本当はとてもおしゃれで服装にも気を遣っていたそうです。
戦中戦後を放浪しながら生き抜き、困難な時代にありながら、緻密で色鮮やかな貼絵による独特の世界を確立しました。生み出されるも作品は、実際の風景より色鮮やかで、どこか日本人が求める懐かしさを思わせるところもあるためか、清の作品は「心の風景」と言われています。不思議と心温まる雰囲気に包まれており、時代の流れとともに、純真、素朴な世界が心に語りかけてくるようです。
1922年 東京市浅草区田中町に生まれる
1928年 (6歳)浅草の石浜小学校に入学
1934年 (12歳)千葉県の養護施設「八幡学園」に入園
1940年 (18歳)11月18日、突然放浪の旅に出る
1954年 (32歳)鹿児島にて放浪生活を終え学園に帰る
1956年 (34歳)全国で山下清展が始まる
1961年 (39歳)ヨーロッパ9カ国を訪問する
1971年 7月12日脳溢血のため死去、享年49歳
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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。
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