買取実績

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大橋翠石「猛虎一声」

掛軸

大橋翠石
「猛虎一声」

買取地区:
岐阜県
買取方法:
出張買取

買取価格¥600,000

今回は「虎の翠石」と異名をとるほど、虎の画を極めた大橋翠石の作品を買取いたしました。先代様が大切になさっていた作品をお譲りいただき、誠にありがとうございました。大橋翠石の虎は年代により査定額が異なってまいります。こちらは一番人気の高い晩年の作品です。猫や鹿、金魚などの図柄は虎に比べますと安い傾向にあります。

大橋翠石の虎は凛としており、威厳もありますね。まるで生きているかのような躍動感もあります。また虎に共通する毛並みの美しさは翠石ならではの技法です。毛描きのための特殊な筆を自ら考案し、自在に駆使することで独自の画風を生み出しました。「この毛描き以上の工夫がなければ、翠石の虎を模しても翠石以上の者はでないであろう」と本人が語ったそうです。

大橋翠石は1865年、岐阜県大垣市安八郡大垣北新町に代々染物屋を営む大橋亀三郎の次男として生まれます。上京して渡辺小華に師事して絵を学びましたが、翌年、師や母を立て続けに亡くして帰郷、更に濃尾大震災で被災し、父と家を失います。20代にして両親を亡くした翠石は、すがるように観音菩薩を画き地元大垣に寄贈したそうです。

翠石と虎との運命的な出合いは、明治20年の大垣中町(現柳原)の大火の跡地か、24年の濃尾震災による火事の跡地か定かではありませんが、火事の跡地に動物の見世物興業が来て虎を見せたときだったとのこと、翠石を含め、当時の人々には大変な驚きだったかと想像できます。その虎の姿に魅せられた翠石は、十日ほど通って虎を克明に写生し、たちまち人々の噂になったそうです。

虎図は各時代を代表する画家たちが描き、数多くの名作を残しています。雪村、狩野永徳、狩野探幽、岸駒や円山応挙など、彼らの描いた虎図は先達の図を模しながら創意を凝らしていました。それに対して翠石は、生きた虎の写生がもととなっているため、それまでの虎図にみられない写実性が見られます。

数々の不幸を乗り越える力を虎の絵に求めた翠石は、研鑽を重ねて独自の画風を完成しました。緻密な毛書きが施された虎画は1900年にパリ万国博覧会で日本人画家として唯一の金メダル(金牌)に輝きます。4年後のセントルイス万国博覧会では、来場者を魅了し「その絵を一生忘れられない」とアメリカ人を感動させました。日英博覧会などの国際博覧会でも連続して優勝金牌を受賞し、当時世界で最も高く評価された日本画家の一人となりました。

明治〜昭和を通じて、官僚・政治家として国際的な活躍をした金子堅太郎が翠石の後見人となり、作品を国際博覧会へ出展したり、宮中への献納に尽力しました。その結果、盛名を得て明治天皇や皇后、朝鮮の李王家などにも絵を献上しています。

1912年に郷里の岐阜県大垣市から療養のため神戸市須磨に移住し、動物たちを描きながらたった一人で自分の芸術を追求し続けました。武藤山治や松方幸次郎ら阪神間の政財界の人々が後援会を結成するなど、厚遇されました。この土地で従来の日本画とは一線を画した濃密な背景表現に特色を持つ、独自の様式を完成させます。翠石の虎画の名声は高まる一方でしたが、後半生を画壇と無縁で過ごし、文展や院展といった権威ある展覧会に出品することはありませんでした。

結核と闘い、何度も愛別離苦を味わいながら画業を心の支えとして立ち上がった大橋翠石は、生涯を通して虎の絵を孤高に探究してより高みへと進化させていきました。

 

1865年 岐阜県生まれ
1886年 上京し、渡辺小崋門下に入る
1887年 母急死、師・小崋が旅先で病死したことを契機に大垣に帰郷し、独学で写生を続ける
1891年 濃尾大地震により父を亡くす、京都の大谷本廟を訪れた際に四条寺町で円山応挙の虎図の写真を購入し、模写に精を出す、見世物興行や動物園で本物の虎を目にする機会を得ると徹底した写生を積み重ねた
1895年 京都・岡崎で開催された第四回内国勧業博覧会に「虎図」を出展して褒状・銀牌を受賞、「虎の翠石」の名声の出発点となる
1900年 パリ万国博覧会と同時開催の美術展覧会に出品した「猛虎図」で最高賞の金牌を受賞
1904年 セントルイス万国博覧会で金牌受賞
1910年 日英博覧会で金牌受賞
1912年 療養のため西須磨に千坪の邸宅を構えて移住、老衰のため死去、享年81歳

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