2024年10月8日
若冲と応挙が合作した金屛風が新発見「鶏」「鯉」左右に描く 北岡技芳堂の骨董品買取ブログ
伊藤若冲と円山応挙が合作した金屛風が新発見 得意の「鶏」「鯉」左右に描く
江戸時代中期の絵師・伊藤若冲(1716~1800)と円山応挙(1733~95)が合作した屛風が新たに見つかり、大阪中之島美術館が2日、東京都内で10月2日に報道陣に公開しました。
若冲と応挙の2人は当時の京都画壇を代表する絵師で、合作が確認されたのは初めてみたいですね!
新たに確認されたのは若冲「竹鶏(ちっけい)図屛風」(1790年以前)と応挙「梅鯉(ばいり)図屛風」(1787年)。二曲一双の水墨画です。
2人が一隻ずつ手掛けたみたいですね!
今年発見とは、まだまだ何が出でくるか分かりませんね!出張買取で、お客様の所にありましたらドキドキします。未知の美術品に出会って買取り出来るのが私達の夢です。
描き方や落款から、金地に竹と鶏が描かれた左隻を伊藤若冲、梅と鯉の右隻を円山応挙の作品。
伊藤若冲と円山応挙の合作
出来も良いですね。水墨でこれだけの表現が出来るとは流石に江戸に名を馳せた名人。
バランスも良いし、緊張感もあります。今まで同時代に生きた若冲と応挙の関係性があまり分からなかったんですね。
お互いが最も得意とする画題を描いている。当時の裕福な人が注文したんでしょうね。
伊藤若冲の「鶏」と円山応挙の「鯉」かー!
しかも竹に梅で縁起も良いですね。金屏風なのも良い。
紙の継ぎ目も左右対称で、発注者が金屛風を仕立てて、おそらく画題も指定して2人に依頼したのではないかといわれている。
若冲研究の第一人者である辻惟雄東京大名誉教授も「若冲と応挙の作品と見て間違いないだろう」と述べています。
人気絵師だった伊藤若冲と写実を重視して円山派を創始した円山応挙の直接的なつながりはほとんど知られていない。
2人の関係を考える上でも重要な作品になりますね!
伊藤若冲の絵画を買取ます。
(いとうじゃくちゅう、1716年〜1800年)は、江戸時代中期の日本画家で、特に動植物に注目した作品で知られています。彼のスタイルは、細密で緻密な描写と独自の色彩感覚が特徴で、伝統的な日本画の枠を超えた革新的な表現が評価されています。伊藤若冲は京都の裕福な青物問屋の家に生まれ、後に画業に専念しました。 彼の代表作には、京都・相国寺に奉納された「動植綵絵(どうしょくさいえ)」という30幅の大作また、「鳥獣花木図屏風」のような大胆な構図と独特なタッチの作品も有名です。 彼の墨絵は有名ですが、発色の美しさにおいても評価されており、特に鶏の絵は彼の代表モチーフの一つです。伊藤若冲の作品は、江戸時代においては一部の愛好者に支持されたものの、その斬新さから評価が分かれることもありました。 しかし、近年再評価され、色彩やデザインの独自性が際立ち、現代のアーティストやデザイナーにも影響を与え続けています。
円山応挙の絵画を買取ます。
(まるやまおきょ、1733年〜1795年)は、江戸時代中期の日本画家で、写生(リアリズム)を重視した画風を確立したことで知られています。 のちに「円山派」という一大流派になり、伝統的な絵画様式に、写実的な描写を取り入れたことが特徴です。従来の理想化された画風から一歩先に進み、実際の風景や動植物を観察し、よりリアルに描写した点が評価されています。 特に「遠近法」を取り入れた作品が注目され、その手法は西洋絵画の影響を受けつつも、日本の美意識と調和した形で発展しました。 これにより、代表作には「雪松図屏風」や「虎図」などがあります。 特に動物や風景画で高い評価を受けており、雪の積もった松や虎のリアルな姿は、写実的かつ繊細な筆使いです。円山応挙は、襖絵や屏風絵など大きな、スケールの作品でも知られています。 応挙の影響は大きく、彼の弟子や後継者たちは「円山派」を形成し、その写実的な画風は後の日本画の発展に大きな影響を与えました。
江戸絵画を買取いたします。
あなたの大切な作品を評価します 江戸絵画とは
江戸時代(1603年~1868年)は、日本の美術史において非常に重要な時期であり、多くの優秀な画家が活躍しました。江戸絵画は、伝統的な日本美術の様式を継承しながら、写実的な表現や個性的なスタイルが特徴です。
ご自宅に眠っている江戸時代の絵画があれば価値があるかもしれません。
買取対象となる江戸絵画
弊社では、以下のような作品を中心に買取を行っております。
掛軸や屏風絵、襖絵、日本画の多くは掛軸や屏風として描かれています。保管状態が良いほど高い評価を得ることが可能です。 著名な絵師による作品 伊藤若冲、円山応挙、曾我蕭白、与謝蕪村など、江戸時代を代表する画家の作品は特に高価買取の対象となります。江戸時代の浮世絵も買取対象です。葛飾北斎や歌川広重などの有名な浮世絵師の作品は、特に人気が高くなっています。
買取の流れ
査定のお問い合わせ申し込み
メールや電話でお気軽にお問い合わせください。作品の写真や情報を送っていただき、事前におおよその査定が可能です。 専門家による詳細査定 当社の専門スタッフが、お客様の作品を細かく査定します。江戸絵画に関する知識豊富なプロが、適正な価格をご提案します。 買取価格のご提案 査定後、正式な買取価格を提示させていただきます。ご納得いただけましたら、その場で買取手続きを進めさせていただきます。 お 支払いが成立した場合、速やかにお支払いをいたします。銀行振込や現金でお支払いが可能です。
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2024年10月7日
イサム・ノグチの作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取ブログ
イサム・ノグチの立体彫刻をお持ちの方へ — 買取強化中
イサム・ノグチは、20世紀を代表する彫刻家として、その名を世界中に知らしめました。彼の作品は、日本と西洋の美意識を見事に融合させ、シンプルでありながら深い哲学を感じます、イサム・ノグチの彫刻作品は、時代を超えた美しさと独自の存在感を放ち、多くのコレクターや美術愛好家から高い評価を受け続けています。
現在、当店ではイサム・ノグチの立体彫刻の買取を強化しております。
もし、イサム・ノグチの彫刻作品をお持ちでしたら、一度ご相談ください。高価買取致します。
専門スタッフが丁寧に査定し、作品の価値を正しく評価いたします。
イサムノグチ(発見の道)安山岩 鹿児島県霧島アートの森藏
イサム・ノグチの作品を買取する理由
時代を超えた造形力のあるイサム・ノグチの作品は、その時代の潮流に留まらず、現代まで新鮮な魅力を保っています。彫刻作品はもちろん、彼の照明や家具も空間を豊かに彩り、日常に芸術を取り入れることができます。 世界的に人気のイサム・ノグチの作品は日本国内のみならず、海外でも多くのコレクターから熱望されています。そのため、当店では国内の市場を見極めた適正な価格で買取を行っております。
イサムノグチの買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.イサムノグチの作品は、当店が真贋を拝見させていただき、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。
Q.イサムノグチの作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。
Q.箱や証明書が無いのですが買取りしてもらえますか?
A.箱や証明書が無くても買取りは可能ですが買取りのお時間をいただく事もあります。
Q.イサムノグチの作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。
Q.イサムノグチの作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.立体作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
思い出と価値を次世代へ
イサム・ノグチの作品には、造形感覚から背景のある物語や時代の空気が込められています。
イサム・ノグチは、20世紀を代表する彫刻家、デザイナー、舞台芸術家として世界的に知られています。 彫刻だけでなく、庭園、家具、照明など、多岐にわたるジャンルで活動しました。
生い立ち 誕生
1904年、日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれます。
1907年、イサム・ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、野口米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、イサム・ノグチは野口勇として森村学園付属幼稚園に通園します。1年後に神奈川県茅ヶ崎市に転居して地元の小学校へ転入し、その年に母レオニーがイサム・ノグチにとっては異父妹となるアイリスを出産する。
1913年からは母の姓であるイサム・ギルモアを名乗り、横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ転入し、茅ヶ崎の自宅の新築設計を手伝うなど数々の建築作品に携わりました。学校へ通う中、イサム・ノグチは1915年に1学期間休学し、母親の個人教授を受けながら茅ヶ崎の指物師の見習い修行をしていく。学校を卒業した後、1918年6月には母の意思で単身でアメリカへ送られ、7月にインディアナ州ローリング・プレーリーのインターラーケン校に入学するが、8月に同校は閉鎖する。エドワード・ラムリーが父親代わりとなり、C・マック宅に寄宿し、ラ・ポート高校に通学しトップの成績で卒業する。卒業写真に残したノグチの言葉は、「大統領になるよりも、僕は、真実こそを追求する。」であった。
イサム・ノグチの若い頃
イサム・ノグチの胸に母が植えつけた願望、「アーティストになりたい」というイサム。ノグチのために、ラムリーはスタンフォード在住の彫刻家ガットスン・ボーグラムに助手としてノグチを預けました。
1923年に、ボーグラムとノグチとは馬が合わず、イサム・ノグチはニューヨークへ移りコロンビア大学(医学部準備過程)に入学し、日本から帰米してきた母と暮らすようになります。そこでイサム・ノグチは医学部に在籍しつつ、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻クラスに通い、入学してすぐに初の個展を開催した。 イサム・ノグチはナショナル・スカルプチャー協会の会員に選ばれ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに出品します。美術学校の校長オノリオ・ルオットロからは彫刻に専念することを勧められる。
彫刻家としてのスタート
1925年、イサム・ノグチはニューヨークで活躍していた日本人の舞踏家伊藤道郎の仮面を制作しました。これがイサム。ノグチにとって初めての演劇関連のデザインでした。2年後にグッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学します。6ヶ月間、彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事してアシスタントを務めます。夜間の美術学校に通いますが、1年後に奨学金の延長が認められずニューヨークに戻りアトリエを構えます。翌年、個展を開きました。
イサム・ ノグチは1930年から1931年にかけて、パリを経由して日本に渡航、京都・奈良などを周遊し、窯元で陶芸を学ぶなどして、約8ヶ月程度滞在しました。この日本滞在の折、長野県軽井沢の新渡戸稲造の別荘で、同じく偶然滞在していたチャールズ・リンドバーグと言葉を交わしています。
1935年に在米日本人芸術家の国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫らと共にニューヨークの「邦人美術展」に出展します。 第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際には自らアリゾナ州のポストン戦争強制収容センターに志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち、他の収容者達から冷遇されてしまいます。その事から、自ら収容所からの出所を希望するも、今度は日本人であるとして、出所できませんでした。後に、芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所します。その後は、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えました。
ブランクーシ ポガニー嬢Ⅱ 1925(2006年鋳造) 磨かれたブロンズ 石橋財団アーティゾン美術館蔵
キャリアの飛躍
終戦後、イサム・ノグチは1947年にジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなど、インテリア・デザインの作品に手を染める。 1950年5月2日に再来日します。同年8月18日から8月27日にかけて銀座三越で個展を開きます。その時に日本では著名な建築家である丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になります。1年後にまた来日し、リーダーズダイジェスト東京支社の庭園の仕事の依頼を受けます。また当時の岐阜市長の依頼で岐阜提灯をモチーフにした「あかり (Akari)」シリーズのデザインを開始します。
日本での結婚と活動
1950年に山口淑子(李香蘭)と結婚のします。(1956年に離婚)。鎌倉の北大路魯山人に陶芸を学び、素焼き作品制作に没頭します。この頃に北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えました。
イサムノグチと山口淑子
豊富な活動と庭園と空間デザイン
1950年の同年、広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)にノグチのデザインが選ばれましたが、原爆を投下したアメリカの人間であるとの理由で選考から外れました。しかしイサム・ノグチのデザインの一部は、平和公園にある丹下健三設計の「原爆慰霊碑」に生かされています。(丹下健三はこのプロジェクトにイサム・ノグチの起用を推挙しました)。また、戦災復興都市計画に伴い計画され、平和公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋のデザインはイサム・ノグチの手によるものであります。
イサムノグチによる平和大橋 平和公園の手前にある、平和大通りに架かる橋です。建設省からデザインの相談を受けた丹下健三は、イサム・ノグチに依頼。
( 大谷幸夫がノグチのスケッチから施工図を起こした。)
イサム・ノグチは1964年「ケネディ大統領墓所」のデザインを設計したこともあるが、こちらは日系であるとの理由で却下されました。 1961年からはアメリカに戻り、ニューヨーク州のロングアイランドシティにアトリエを構え、精力的な活動をし始めます。まずはアメリカの企業IBM本部に2つの庭園を設計し、幼少の頃住んでいた神奈川県にある横浜のこどもの国で遊園地の設計が実際の計画に移されました。
イサム・ノグチ回顧展
そして1968年にホイットニー美術館において大々的な回顧展が開催されます。
イサム・ノグチ『黒い太陽(ブラック・サン)』
1年後の1969年にシアトル美術館にて彫刻作品『黒い太陽(ブラック・サン)』を設置します。また、東京国立近代美術館のために『門』を設置します。この年、ユネスコ庭園への作品素材に香川県の庵治町(現・高松市)牟礼町で産出される花崗岩の庵治石を使ったことをきっかけに牟礼町にアトリエを構え、「あかり (Akari)」シリーズを発表します。ここを日本での制作本拠とし、アメリカでの本拠・ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行います。
大阪万博と受賞
1970年には大阪で行われた日本万国博覧会の依頼で噴水作品を設計し、4芸術協会主催によるパーム・ビーチ彫刻競技会にて作品『インテトラ』が2等受賞しました。同時期に、東京の最高裁判所の噴水を設計して設置します。 Zwillingsplastik 1972 ミュンヘン 1984年からロング・アイランド・シティにあるイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開されます。
1970年の大阪万国博覧会で製作された、日系アメリカ人彫刻家・イサム・ノグチ氏の彫刻作品。 現在は噴水の機能を果たしていないが、12基中6基が残されたオブジェが白鳥ボートとともに夢の池のアクセントとなる。
同年、コロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞します。1年後の1986年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出され、同年日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞、1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲します。
イサム・ノグチの没年
1988年に勲三等瑞宝章を受勲し、北海道札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組みました。これは公園全体を一つの彫刻に見立てた「最大」の作品でありましたが、イサム・ノグチはその完成を見ることなく同年12月30日、心不全によりニューヨーク大学病院で84歳の生涯を閉じました。
イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモア (1873〜1933)がとても素敵な眼鏡美人
母の死
母レオニーの命日に1日だけ先んじ、イサム・ノグチもその天命をまっとうしました。 1年後にはイサム・ノグチの遺志を継いだ和泉正敏が制作した遺作『タイム・アンド・スペース』が完成し、香川県の新高松空港に設置されました。
1999年には制作の本拠地であった高松市牟礼町にイサム・ノグチ庭園美術館が開館しました。イサム・ノグチがマスタープランを手がけてから16年後の2004年にモエレ沼公園は完成し、翌2005年にグランドオープンしました。モエレ山、プレイマウンテン、テトラマウンド、ノグチデザインの遊具のエリア、さくらの森、テニスコートや野球場などを含む188ヘクタールの広大な公園であリります。
2010年11月20日に松井久子監督によるノグチの母を題材とした日米合作映画『レオニー』が公開されました。
2013年8月、宮本亜門原案・演出による舞台『iSAMU〜20世紀を生きた芸術家 イサム・ノグチをめぐる3つの物語〜』が3年の創作期間を経て上演されました。
(PARCO劇場他)
イサム・ノグチ/サイクロンテーブルCycloneTableФ120【イタリアスティールライン製】
家具デザイン
イサム・ノグチは家具デザインにも情熱を注ぎ、特に「ノグチ・テーブル」は現代のデザインアイコンとして広く知られています。 彼の家具作品は、シンプルでありながら有機的なフォルムを持ち、彫刻的な美しさが特徴です。
イサムノグチ発案
照明デザイン
さらに、日本の伝統的な紙灯籠からインスパイアを受け、1950年代には「AKARI(あかり)」シリーズを発表。このランプは、軽やかでありながら温かみのある光を放ち、世界中で人気を博しています。
晩年と遺産
1980年代晩年も精力的に活動し、日本の高松市にある「イサム・ノグチ庭園美術館」を拠点に、彫刻やデザイン活動を続けました。この美術館は、彼の作品や制作過程を間近に見ることができる場所として、今も多くの人々に愛されています。
イサム・ノグチの影響
イサム・ノグチの作品は、芸術的なオブジェクトを超えて、空間全体や人間と自然との関係を探求するものでした。彼の作品は世界中の美術館や公共の場に展示されており、彼の遺産は今もなお多くの人々にインスピレーションを与え続けています。
イサム・ノグチの鑑定と買取
イサムノグチの作品の売却を検討されております方は、お気軽にご相談ください。イサム・ノグチの彫刻作品の買取にご興味のある方は、ぜひお気軽に当店までお問い合わせください。オンライン査定も承っておりますので、遠方の方でもスムーズにご相談いただけます。査定についての詳細は、当店のウェブサイトをご覧いただくか、お電話やメールでお問い合わせください。 イサムノグチ作品を買取強化中!あなたの大切な作品を、次のコレクターまでつなぐお手伝いをさせて頂きます。
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2024年10月6日
北大路魯山人の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の買取りブログ
北大路魯山人を手放す時は骨董品のプロへご用命ください。高価格で買取り致します。
骨董品買取の北岡技芳堂では、書家 篆刻家 画家 陶芸家 漆芸家 料理人「北大路 魯山人」の作品を探しています。
北大路魯山人作品を手放す際は骨董品・古美術専門の鑑定士が在籍する北岡技芳堂にご相談ください。
1883年〈明治16年〉3月23日 〜1959年〈昭和34年〉12月21日)は、日本の芸術家。
北大路魯山人 本人
本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。1883年(明治16年)、両親は京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に、上賀茂神社の社家・北大路清操(きよあや)、登女(とめ、社家である西池家の出身)の次男として生まれる。士族の家柄だったものの生活は貧しかったうえ、版籍奉還2年後の明治4年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されたため混乱期にあった。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎が生まれる4ヵ月前に自殺します。母・登女は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪しました。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰ります。出生から5ヵ月後の1883年(明治16年)9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となります。しかしこの2ヵ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になります。同年秋に巡査の妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになりました。
北大路魯山人の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.北大路魯山人の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。
Q.北大路魯山人の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。
Q.北大路魯山人の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。
Q.北大路魯山人の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
北大路魯山人が愛した躑躅(ツツジ)
3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎に永遠の記憶を残す「真っ赤な躑躅の咲き競う光景」を見る。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。
躑躅を愛した北大路魯山人は晩年に紅志野という作品を編み出した。
「鉄分の多い信楽の土を使って焼成した紅志野は、北大路魯山人の代表作になりました。」
その頃、義兄に精神異常が出てその後死亡しました。1887年(明治20年)頃、房次郎が4、5歳だった時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せました。この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受けます。2、3ヵ月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子の話を持ちかけます。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなります。福田家では6歳の頃から炊事を買って出ました。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいきました。
若き日の北大路魯山人
こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなります。福田家では6歳の頃から炊事を買って出ました。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいきました。貧しい家で入手できる食材を、可能な限り美味しく料理しようと努めた北大路魯山人は、素材のすべてを活かし切る技術を身につけました。残り物を活用するのも得意だっため、放浪時代は居候先で重宝されました。
北大路魯山人が憧れた竹内栖鳳の絵 山種美術館
10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業します。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出されます。ある日、奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われます。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳でした。彼に会ったことで絵に対する好奇心と情熱は一気に高められました。
いろは屛風(右隻) 北大路魯山人 昭和28(1953)年 足立美術館
たっぷりとした墨でのびのびと書いたかな文字の屛風が、北大路魯山人の書の代表作。
1896年(明治29年)1月に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが家計的な問題もあり断念します。養父の木版の手伝い始め、扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身に着けていきます。他方、一字書の書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中から天の位1枚、地の位1枚、佳作1枚を受賞します。以後、彼は応募を続け次々と受賞していく。14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始めます。この頃には西洋看板描きとしても活躍していました。
北大路魯山人 濡額 無尽蔵 吉兆庵美術館
「幾ら取っても尽きないほど、豊富にあること」
20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れます。彼により母の所在を知ります。実の母の居所が分かり、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志します。1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した『千字文』が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。この展覧会では福田海砂(かいさ)と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後、住み込みで版下書きの仕事を始めます。
北大路魯山人の師 岡本可亭の書
「可亭生」の横に、陰刻下駄印の「良信」と「子耐」 の落款が押されている。岡本可亭は伊勢の人で 、名は良信、通称は竹二郎、字は子耐、号を可亭 ・長春堂などと称し、藤堂藩に使えた儒者岡本安五郎の次男で、「初め父より御家流を 習い、後に趙子昂を学んで一家を成した書家」と 伝えられているが、詳細は不明である。ただ父が 儒者であれば、幼時に家学としての漢学や書を習ったと推測することは可能です。その後、東京での版下作りや看板揮毫で名を成した書家であったことは確かで あり、明治24年には『普通高等新体婦女用文』や 『女宝』等の書籍も公刊しています。
漫画家 岡本一平
この頃、房次郎の実母登女との関係も良くなっていきます。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込みます。そこでは福田可逸の号を授かり次第に可亭よりも仕事の発注が増えていきます。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになります。1907年(明治40年)、福田鴨亭を名乗って可亭の門から独立します。翌年2月17日、結婚し、その年の夏に長男が誕生しました。仕事は繁盛し、稼いだ収入を書道具や骨董品、外食に注ぎ込むようになりました。合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭しました。
呉昌碩 臨石鼓文 1926年
1910年(明治43年)12月、実母と共に房次郎は朝鮮に旅立知ます。母を京城(ソウル)の兄のところへ送り届けた朝鮮内を旅し3ヵ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活します。1911年(明治44年)3月、日本に残した妻に第二子が誕生しました。京城滞在1年弱で中国の上海に向かい、書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会います。1912年(明治45年)夏に帰国。書道教室を開きます。半年後、滋賀県長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供されました。
呉昌碩 牡丹図幅 1022年
ここで、房次郎は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残しています。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた竹内栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出ます。その款印を気に入った竹内栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになりました。
北大路魯山人を金沢で世話した細野燕台 書
1915年(大正4年)には、石川県金沢の細野燕台のもとに寄留し、美食や陶芸への関心を啓発されました。 1916年(大正5年)、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿と名乗ります。そして北大路魯山人の号を使い始める。
北大路魯山人 織部扇面形鉢 昭和15(1940)年ごろ
その後も滋賀県長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていきました。また内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていきました。1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになります。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになります。1921年(大正10年)、会員制食堂「美食倶楽部」を発足し、自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していました。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町の星岡茶寮を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めました。
北大路魯山人 星ヶ丘茶寮
1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。1930年(昭和5年)秦秀雄と出会う、意気投合し秦秀雄を星岡茶寮の支配人へ取り立てます。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放された。同茶寮は太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、空襲により焼失しました。
荒川豊蔵 志野茶垸 銘 不動
戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房」を開店し、在日欧米人からも好評を博します。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチと山口淑子の夫妻を星岡窯に一時寄寓させました。
イサムノグチ 1971年 和歌山県立近代美術館
1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソとマルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退しました。 孫として鎌倉で生まれた陶芸家の北大路泰嗣は、祖父の北大路魯山人から「泰嗣(ひろし)」と命名されました。陶芸家でも有名であった北大路魯山人の影響を受けており、幼ない頃から魯山人と親交のあった荒川豊蔵の水月窯で陶芸の修業を積み、1992年(平成4年)岐阜県にに无疆窯を開設し、その窯元として活動します。 1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜市立大学医学部病院で死去。 1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失しました。
北大路魯山人 星岡窯
北大路魯山の人の作品を高価買取いたします。
北大路魯山の人の作品をお持ちの方へ、当店ではその価値を最大限に評価し、他店には負けない高価格で買取させて頂いております。
陶芸、書道、絵画、漆芸など、幅広いジャンルで才能を発揮した偉大な文化人として知られています。常に高い人気を誇っています。
北大路魯山人の芸術の魅力
北大路魯山人は、その独特な美しい感覚と類まれな技により、数々の名作を世に送り出しました。 特に彼の陶芸作品は、シンプルでありながらも繊細な形状と、美しい釉薬で懐石料理人を虜にしています。また、書家としても名高く、魯山の人の書には独特の考えに基づく理論と繊細さが共存しています。 彼の作品は、日本の伝統的な美意識を体現しつつも、独自の芸術性を追求したものです。
当店の買取について
北大路魯山人の作品に関して、あらゆるジャンルを対象として買取を行っております。
陶芸作品、書、絵画、漆器、さらには食器など、どのような作品もお取り扱い可能です 。
買取り作品の例
陶芸:花瓶、茶碗、皿など
書道:掛け軸、屏風、巻物
絵画:墨絵、水彩画など
漆器:漆塗りの器、食器、家具 その他、魯山人が手掛けた美術品全般
鑑定・査定について
専門の鑑定士が一つの作品を丁寧に査定いたします。 長年の経験と知識をベースに、作品の真価や価値をしっかりと見極め、正確な評価を行います。北大路魯山人の作品はその希少性から市場価格が高額なこともあり、当店ではその相場に見合った最も高い査定額をお約束いたします。
買取の流れ お問い合わせ
お電話やメール、もしくは当店のウェブサイトからでも買取のご相談を承ります。 北大路魯山人の買取り査定、店頭での直接査定、または宅配買取にて作品をお送りいただき、評価を行います。査定は無料で対応いたします。 査定結果のご報告は、査定後、買取価格をお知らせいたします。金額にご納得いただければ、その場でお取引を進めさせて頂きます。 お支払いは、店頭では即日現金でお支払い可能です。宅配買取の場合は、お振込にて迅速に対応させていただきます。
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2024年10月5日
アートコレクターズ10月号に大隈伸也展の記事を掲載いたしました。北岡技芳堂の絵画買取ブログ
アートコレクターズ10月号に大隈伸也展の記事を掲載いたしました。
弊店での秋の展覧会です。若手注目作家による斬新な世界をぜひご高覧ください。
FRAGFITI 断片のマスターピース
大隈伸也 個展
【会期】2024年10月16日(水) 〜10月22日(火)
【営業時間】 10:00~18:00 (最終日は16:00まで / 会期中無休)
【作家在廊日】20日(日)、21日(月)
2013 世界絵画大賞展 遠藤彰子賞
2020 武蔵野美術大学油絵学科油絵専攻卒業
2022 村上隆主宰「GEISAI♯21」リキテックス賞
アートコレクターズ10月号 令和のペインター
編集部内ではたびたび、近年人気の若手作家に、1980年代の欧米の新表現主義の潮流に影響を受けた絵画作品が多いという話題が上がっていた。なぜそういった作品が人気を集めるのか、一度考察すべきだという意見が出され、本特集へと繋がった。
だが、そんな意見を念頭に入れつつ展覧会を回るうち、たしかにそういう作品はあるものの、事象としては、もう少し扱う範囲を広げつつ、むしろ国内で90年代に登場したペインターたちや評論からの流れで考えた方がよいのではないかという思いが強くなった。
いわゆる写実絵画やポップアート風絵画への熱狂が、コロナ禍とともに一応落ち着きを見せた結果、日本美術のひとつの比較的新しい古層がめくれ出てきたのではないかと。
一方、現代は90年代とは当然異なり、作家たちの考え方も違うはずだ。そこで、この30年来の美術の動向に詳しい識者の言葉と同時に、なるべく若手作家たちの生に近い言葉を入れたいと思ったのである。
前置きはともかく、本特集では個性のある若手作家に多数参加いただいた。楽しみつつ、一緒に日本の絵画表現の現在地について考えていただけると嬉しい。
『FRAGFITI』(フラグフィティ)
Fragment(断片) × Graffiti(グラフィティ) を掛け合わせた造形です。
身近なモノ、日常的な情景、モチーフを自身のイメージの中で一度分解して再構築し、それらは特異なモノへと変化します。
断片化されたイメージはより様々な一面を持って鑑賞者に問いかけます。
この秋、未来を見据えて、若手注目作家の絵画展を開催いたします。大隈伸也の作品は、今までの枠に囚われない新しい視点と大胆な表現で、美術界に新しい風を吹き込んでいます。これからさらに注目されると思いますので皆様、応援のほどよろしくお願いいたします。
現代社会のリアルな感覚を鋭く切り取り、ザクザクやギザギザと音が響き渡るような、見る者に強い印象を残す油彩作品を約10点展示いたします。色彩と形状の独自のアプローチは、伝統とモダンが調和して驚きと感動をもたらします。
絵画は誰かの真似だったり、誰かに似ていたりしていたら、評価されない時代になってきました。非常に個性のある、独創的で創造性あふれる大隈伸也の才能に触れ、これまでにない新しいアートの魅力をぜひ体験してください。
期間中、展示作品はご購入も可能です。皆様のご来店を心よりお待ちしております。
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2024年10月4日
健康が一番 北岡技芳堂の骨董品買取ブログ
普段は、骨董品の買取や絵画の買取のブログを綴ってますが今回は個人的なお話をします。
いつも北岡技芳堂の骨董品買取ブログをお読み頂きありがとうございます。
1週間ぐらい前から喉の調子が悪く、首元が痛い喉が痛いカラオケで歌が歌いづらいなどの症状があり、喉に何か異変がおこったのではないかと不安に思っていました。
お客様と骨董品や絵画の販売や買取の話が出来なくなったらどうしよう?と考えてしまします。
そういえばシャ乱Qのつんく♂さんも2015年の46歳の時に「一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました」。音楽プロデューサーのつんくさんが、喉頭がんの治療のため、声帯を摘出したと公表した。
そのつんくさん55歳ですからあれから10年ほどたちますね。
シングルベットなど名曲がありますよね!懐かしいですね!
現在の、つんく♂さんは、ハワイを拠点に総合エンターテインメントプロデューサーとして活躍しています。作詞作曲やアーティストのプロデュースなどを行っています。
つんく♂さんもこれからも頑張って欲しいです。ご興味のあります方は上記をクリックしてください。
最近は、自分より先輩やテレビの芸能人の年をとった姿を見て自分もだんだん年を取っていくんだなと改めて思う今日この頃です。
歌手じゃなくても、骨董品や絵画を扱う美術商でも、買取や販売の時にお客様に説明をしなければいけません。ですので声は大切です。
喋れないと絵画や骨董品の話が出来ないので、商売が出来なくなってしまう。これは困った!
知人の奥さんが女性には珍しく喉頭癌らしく、店も家庭も心配です。大丈夫かなと!思いながら、ひょっとして自分もそうなのかと思ったりしました。のどにできるがんは、咽頭がん(いんとうがん)と喉頭がん(こうとうがん)に大きく分かれます。 喉頭がんは、がんができる場所によって現れる初期症状が異なることが知られています。
のどは、咽頭と喉頭という二つの器官からなります。咽頭とは、鼻の奥から食道の入り口までの、食べ物や空気が通る管(くだ)のことを指します。 喉頭はいわゆる、のどぼとけの位置にある器官で、気管の入り口にあたります。
喉頭がんは、がんができる場所によって初期症状が現れる時期や症状の種類が異なります。初期症状として、声のかすれやのどの違和感、飲み込むときの痛みなどが多く見られますが、いずれも風邪によく似た症状であり、喉頭がんに特有のものではないらしい。
症状が1カ月以上続くような場合は、風邪だと思い込まず、早めに耳鼻咽喉科を受診してください。
私は近所の内科に行って、血液検査をして、次の日に胃カメラをして頂きました。
私は、お酒をよく飲み、夜中まで食事をダラダラする癖があるので、先生にそれは辞めなさいと言われました。
お酒を飲んですぐ寝るんですよね!
私の場合は、逆流性食道炎でした。
一応、お医者さんに見てもらってスッキリしましたが生活習慣を変えないとこれから悪くなる一方だと思っております。
逆流性食道炎とは、胃の内容物(主に胃酸)が食道に逆流することにより、食道に炎症を起こす病気です。 健康な人でも胃酸の逆流がみられることはありますが、時間が短いため問題になることはありません。 逆流の時間が長くなると、食道の粘膜は胃酸に対し弱いため食道に炎症を起こすようになります。
健康が一番
日々の生活の中で、私たちは仕事や人間関係などに追われ、時には自分自身の体調や心のケアを後回しにしがちです。私も毎日、買取りや販売のことばかり考えてますから少しは気分転換をしないといけません。
何よりも、健康であることが大切であり、身体的な健康はもちろん、心の健康も同じくらい重要です。 バランスの取れた食事、適度な運動、質の良い睡眠、仕事だけではなく、意識的に健康に対する行動の時間を作ることが、長期的に見て自分の人生を有意義に過ごせる事だと思います。
自分の健康のありがたみを知って、その価値に気づくことが大切です。病気になる前に、自分の体や心に耳を傾け、ケアしていくことが大切です。
少しの時間でも健康のために時間を作ることは、未来の自分への最大のプレゼントです。 課題目標を達成したり、夢を実現したくても、健康じゃないと何にも始まりません。
皆さんもぜひ、日々の生活の中で健康に気を使い、自身の健康を最優先に考え、心身共にに元気でいることを大切にしてください。
健康こそが、私たちは一番大切です。
これからも、絵画や骨董品を買取りを致しますので今後ともよろしくお願いいたします。
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2024年10月3日
交換会で東京への出張 北岡技芳堂の骨董品買取ブログ
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2024年10月2日
専属の行政書士による安心サポート 北岡技芳堂の骨董品の買取りブログ
こんにちは。
日々の忙しさの中で、なかなか時間を割いて将来のことを考える機会が少ないかもしれませんが、ここで少しだけ将来に向けた「備え」について一緒に考えてみませんか?
最近、骨董品の買取や絵画の買取の際に、相続や贈与に関するお問い合わせが増えております。確かに相続贈与前提の手続きは一見難しいと思われますが、準備がしっかりしてないと後々のトラブルの原因になります。しかし、将来の財産管理に関する手続きは不安になる必要はありません。適切なサポートを受ければ、スムーズに進めることができます。 特に、生前贈与や遺言書作成、さらには遺産分割協議書作成といった手続きは経験豊富な専門家に依頼することで、複雑な部分を解消し安心して進めることが可能です。
本日は、北岡技芳堂の専属行政書士によるサポートについてご紹介させていただきます。
行政書士は、相続や贈与に関する法的な書類作成の専門家であり、皆様の財産を守り、ご家族とのトラブルを未然に防ぐためにお手伝いいたします。今後、将来の財産管理を見据えた贈与契約のポイントや、遺言書作成のご検討、そして当面の相続で必要な遺産分割協議の重要性について具体的に説明してまいります。将来の備えをしっかりと考えている方にとって、この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。 それでは、最後までどうぞお読みいただければと思います。
専属の行政書士による安心サポート
北岡技芳堂では、骨董品や絵画の鑑定、査定、買取り業務以外に専属の行政書士と取り組んでおり、お客様の財産や相続に関する様々な手続きをサポートしております。
特に生前贈与や遺言書作成、遺産分割協議書作成といった、将来の財産管理に関して重要な書類の作成を安心してお任せいただけます。
生前の贈与は「贈与契約」から始まります 生前の贈与は、将来の相続に備え、財産を前にもって贈与するための手続きですが、規約財産を譲渡するだけではなく、法的には「贈与契約」として扱われます。しっかりとした契約書を作成しておくことが重要です。
北岡技芳堂の専属行政書士は、贈与契約書作成をはじめ、税務や法律の冷静なアドバイスを行い、安心して生前贈与の手続きを進められるようサポートします。後々のトラブルを防ぐために非常に重要ですので、専門家の力をお借りすることをお勧めします。 遺言書作成のサポート また、生前にしっかりとした遺言書を作成しておくことで、ご自身の意思を明確にし、相続時のトラブルを防ぐことができます。
遺言書は法的な有効性を持つため、正しい形式や内容で作成
専属行政書士は、遺言書内容や形式に関して専門知識を学び、適切な遺言書を作成するお手伝いをいたします。 特に、以下のような方に遺言書作成をおすすめします。
1,相続の意思を明確にしたい方
2,特定の財産を誰に譲りたい方
3,相続トラブルを回避したい方
行政書士がサポートすることで、遺言書の内容が法律に基づいた適切なものとなり、後の安心感を得ることができます。
遺産分割協議書作成もお任せください
遺産分割協議で集まった際には、その内容を正確に文書に残すために「遺産分割協議会」を行うことがが必要です。そこでの協議書が後に重要な役割を担うため、登記や相続税の申告などが必要です。こういった書類は、漏れや不備のないよう作成することが求められます。 北岡技芳堂の専属行政書士は、この遺産分割協議書作成も専門的にサポートします。相続人同士の審議が協議に進むようアドバイスを行い、最終的に法律に則った協議書を作成致しますので、安心してお任せください。
安心と信頼の行政書士サポート
生前贈与、遺言書、遺産分割協議書作成は、将来の相続に関する大切な手続きです。これらをしっかりと準備させて頂きますので、ご自身やご家族にとっての不安や負担を軽減することができます。専門知識と豊富な経験を持つ北岡技芳堂の専属行政書士にご相談ください。皆様の大切な財産を守るために、全力でサポートさせていただきます。
行政書士 コスモスマーク
コスモスマークの形は、コスモスの花びらの中に「行」の文字を配したものです。 コスモスの花言葉は、「調和」と「真心」。 行政書士の徽章が意味するように、行政書士は社会調和を図り、誠意をもって公正・誠実に職務を行うことを通じ、国民と行政との絆として、国民の生活向上と社会の繁栄進歩に貢献することを使命としています。 行政書士は、法律専門国家資格者の中でも特に幅広い業務範囲を持ち、国民の生活に密着した法務サービスを提供しており、高い倫理観を持って職務にあたるよう心がけています。
北岡技芳堂は、骨董品や絵画の鑑定、買取りだけではなく遺産相続評価書の作成も行なっております。
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2024年10月1日
今年の夏は、例年になく厳しい暑さが続きましたね。 北岡技芳堂の骨董品買取ブログ
暑い真夏も骨董品や絵画の買取りを致しましたが………
今年の夏は、例年になく厳しい暑さが続きましたね。 気温が38度を超える日も続き、外に出るだけで汗が噴き出すような毎日がありましたね。
この夏、お客様のお宅を汗だくで、絵画や骨董品のご整理をさせて頂いたのを思い出します。
暑かったですね=!
何処にいても暑かったですから、私は氷を抹茶に入れてアイス抹茶を飲んだり、プールに行ったりして暑い夏を凌ぎました。
そういえば、今年はコンビニのアイスコーヒーをかなり飲んだのを思い出します。
冷たい飲み物を片手に涼を求める日々、外に出るのが億劫になりがちで、少し疲れがたまっていた方もいらっしゃるのではないでしょうか、こんな暑さも、やっと一段落し、最近は少し過ごしやすくなってきました。
芸術の秋になってきました、美術品に意識を向けて骨董品や絵画などを眺める季節になってきました。今年の秋は何処の美術館に行こうとか、良い絵画が欲しいとか色々お考えではないでしょうか。
空気が多少穏やかに感じられ、夕方には涼しい風が心地よく吹き抜けるようになりました。
半田市 矢勝川堤の彼岸花
矢勝川堤の彼岸花は、愛知県半田市岩滑西町にある矢勝川堤に広がっています。常福院の裏手にある高田橋から西の方角の弘法橋まで、約2km(30分)の散歩道に彼岸花が咲き誇ります。
例年9月下旬になると、矢勝川堤の全長約1.5kmにわたって、地元の人々によって育てられた300万本以上の彼岸花が一斉に花をつけ、一面が真っ赤な絨毯に覆われる幻想的な光景が現れます。
2024年の開催日は9月20日 ~ 年10月04日となっておりますが、今年は残暑で咲くのが少し遅れているみたいですね。
いつの間にかセミの声が無くなりましたね!
セミの鳴き声から秋の虫たちの音に変わったことを思い出したら、「ああ、もう秋なんだ」 毎年この季節の変わり目に、どこか懐かしい気持ちになりませんか?
学生の頃は、夏休みが終わって新学期が始まるこの時期、少し名残惜しい気持ちと新しい季節への期待で胸がいっぱいだった事を思い出します。
高校3年生と中学3年生は受験勉強に精を出している学生さんも多いと思います。頑張ってください!
人によって目指すものが違いますから自分を生かす為に有効な事をして頂きたいですね!
昔の事を色々思い出すのが、秋かも分からないですんね。
今年も、その懐かしい気分を少しだけ感じながら、 散歩していると、木々の葉がほんの少し色づき始めているのが目に留まりました。
また、涼しくなってくると食欲も増してきて、旬の美味しい食材が並ぶ季節でもありますよね。
スーパーや八百屋さんでは、秋の味覚が少しずつ増えてきているのを見ると、買い物籠に食材を入れる手が伸びますね、 秋といえば、やはり美味しいものが多い季節。サンマや栗、キノコ類、そして新米。これからは、温かい料理がより一層美味しく感じられる時期なので、家で鍋料理を食すのも一つです。
私はこの時期になると、歴史小説を手に取ったり、温かい飲み物を片手に映画を見たりします。これからどんどん涼しくなり、紅葉の見頃も近づいてきます。 山や公園に紅葉狩りに出かけたり、スマホのカメラで自然の美しい風景を写真に収めるのも、この時期ならではの楽しみ方ですよね、季節の変わり目は、体調を崩しやすい時期でもあるので、体を冷やさないように注意しながら、秋を楽しんでください。と言ってもまだ今年は暑いですよね!
皆さんも、ぜひこの過ごしやすい季節を楽しみながら、秋ならではの楽しみを見つけてくださいね。 季節ごとの小さな幸せを感じることで、日々の生活がより豊かになります。
皆様は、倉庫のご整理などはされる予定はございませんでしょうか、夏の暑い中では、倉庫もかなり暑いですが穏やかな季節になりました。
今年も何件かのお客様の、暑い倉庫の中をご整理させて頂きました。
これからは涼しくなりましたので、倉庫のご整理をお考えの方はとても良い季節になりました。もしも、骨董品や絵画が倉庫に眠っていて、ご整理をお考えの方は、北岡技芳堂までご連絡ください。
骨董品、絵画、茶道具、日本刀、など様々な物を鑑定査定させて頂きます。
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