2015年4月12日
須田剋太の絵画を買取致しました。
須田剋太
洋画家。書家。本名勝三郎。独学で絵を学び、戦前、日展・文展で特選3回。抽象画家・長谷川三郎の影響を受け、戦後は抽象画を手がけ、国内外で高い評価を受ける。やがて書の世界にも深く傾倒し、抽象・具象・書と幅広く活動。昭和46年以降、司馬遼太郎「街道をゆく」の挿絵を制作することで、作品的にも具象画の新境地を開くとともに、司馬と深い友情を育んだ。曹洞禅開祖・道元の「正法眼蔵」を思想の支柱とし、純粋無垢であると同時に乱暴なエネルギーに満ちた作品群を遺した。光風会会員。国画会会員。西宮市民文化賞、兵庫県文化賞、大阪文化賞受賞。神戸市で歿。享年84。
2015年4月9日
熊谷守一の昭和10年前後の裸婦
熊谷守一
裸婦 4号
昭和10年前後
求龍堂 熊谷守一油彩画全作品集 掲載
東京美術倶楽部 鑑定書付
初期の作品は初期の作品んで魅力がありますね!
ずーと眺めていても飽きない作品です!
2015年4月8日
熊谷守一の絵画を買取致しました。
熊谷守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 – 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。
写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。4歳で死んだ息子・陽(よう)の死に顔を描いたもの(「陽の死んだ日」)、戦後すぐに20歳を過ぎて結核を患って死んだ長女・萬(まん)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたもの、野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」)、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子(「仏前」個人蔵)なども絵に残している。子煩悩で大変に子供をかわいがった。
自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されている。
熊谷は自分の画風を「下手も絵のうち」と表現している。「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい」と語っている。
晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。晩年描かれた多くの油絵作品のモチーフは、ほぼすべてが熊谷邸の庭にあったものである。
熊谷様式とされる下絵デッサン(線)が塗り残された作品で、山々や海・風景が描かれたものについては、若い頃のスケッチブックを広げて油絵にしていた。同じ下絵で描かれた作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと熊谷自身が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。線と面で区切られた小さな4号サイズの板には 作品を見るものに【昆虫の目】を持たせてくれる。
面と線だけで構成された「赤蟻」(1971年)など、その独特な画風は現在高い評価を得ている。
2015年4月4日
梅原龍三郎の絵画を買取いたしました。
1888(明治21)京都~1986(昭和61)東京
本名良三郎。伊藤快彦の画塾鐘美館に通う。その後聖護院洋画研究所と合併、同所で学ぶ。のち関西美術院で浅井忠に師事する。明治41年から大正2年に渡仏、ルノワールに師事する。1922年(大正11年)に春陽会の設立に参加。春陽会を去った後、土田麦僊の招きで国画創作協会に合流、15年に洋画部を設立。昭和3年には独立し「国画会」となる。 昭和10年に帝国美術院会員、昭和19年に帝室技芸員、東京美術学校教授となる。師ルノワールの影響を受けた、柔らかで華やかな色、豪快なタッチが特徴である。また有島生馬を通じ、『白樺』にルノワールやパリの芸術についての文章を寄せている。昭和27年東京美術学校教授辞任、ベネチア・ビエンナーレの国際審査員、同年に文化勲章を受章。昭和32年に日本芸術院会員を辞任。48年フランス政府よりコマンドール勲章。昭和61年歿、享年97歳。