買取実績

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荒川修作「Chain of Command」

絵画

荒川修作
「Chain of Command」

買取地区:
名古屋市
買取方法:
出張買取

買取価格¥70,000

荒川修作(あらかわ しゅうさく)1977年のリトグラフ「命令の連鎖」を買取いたしました。

荒川修作といいますと、この辺りでは岐阜県養老町にある「養老天命反転地」が有名ではないでしょうか。こちらは世界的に活躍したアーティスト荒川修作とパートナーで詩人のマドリン・ギンズが、30数年以上に及ぶ構想を経て実現したテーマパークです。

天命反転地はその名の通り、生けるものはいつか必ず死ぬという天命に反するという思想を具現化した建築物です。修作は6、7歳の頃、自分が突然消えてしまうことに不安を感じ、以来ずっとその恐怖に囚われ続けていたそうです。こうした死への強迫観念から「死なないために」というワードが生み出されたのかもしれません。常識を問い直す作品を発表し、世界の荒川と高く評価されました。

「養老天命反転地」の約18,000㎡に及ぶ広大な敷地には、水平、垂直な線は極力排除され、人工的な地平線が数多く配置されるなど、至る所に人間の平衡感覚や遠近感を混乱させる仕掛けが施されています。

養老天命反転地使用法には『バランスを失うことを恐れるより、むしろ(感覚を作り直すつもりで)楽しむこと。』とあります。急勾配の斜面を登ったり、足場が不安定な道を歩いたり、幼少の頃に家族と訪れた時のおぼろげな記憶では、不思議な空間で子供ながらに多少の不気味さも覚えたことを思い出しました。

荒川修作は、1936年に名古屋市瑞穂区雁道町で生まれます。両親は芸術関係の人間ではありませんでしたが、幼少期に庭を共有していた町医者の奥さんが芸術家でした。「医者になりたかったら、デッサンを勉強しなさい」と言われたのがきっかけとなり、手の描き方などを教わり、9歳頃にはデッサン力があったといいます。その後も毎日デッサンを習い、みるみる上達していきます。学校へ行くと「絵が上手いから絵描きになれ」と言われ、中高のときには道が決まっていたそうです。

1951年、愛知県立旭丘高等学校美術過程に入学します。同級生には美術家・赤瀬川原平、一学年上に彫刻家・石黒鏘二がいました。1956年に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)へ入学するも3ヶ月で中退します。

読売アンデパンダン展に1958年から出品し、《棺桶》シリーズのオブジェで東野芳明ら批評家の注目を集めます。翌年同展に出品された「人間―砂の器B」が美術評論家・瀧口修造に注目され知遇を得ます。修作は岡本太郎に弟分として可愛がられていました。

ちょうどこの頃、修作をいたく気に入っていた岡本太郎は三島由紀夫を紹介します。三島は自己紹介代わりに自身の著作を手渡したところ、修作は「下らない」と窓から投げ捨ててしまい三島と大喧嘩になりました。岡本は喧嘩をなだめるのに相当苦労したそうです。

1960年に吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平、風倉匠、有吉新、石橋清治、上田純、上野紀三、豊島壮六とともに、前衛芸術グループ『ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ』を結成します。アナーキズムを標榜し、従来の一切の芸術概念に反旗を翻した「反芸術」を実践しました。4月、7月、9月にネオ・ダダ展を開催、しかし、修作は同9月に初個展「もうひとつの墓場」(村松画廊/東京)を開いたことで、グループの規律を乱したとして批判され離れますが、会場でもあった吉村の自邸「ホワイトハウス」閉鎖等の理由で、同年中にグループ自体が消滅しています。

修作はネオダダに参加する以前から、自分なりに医学、科学、哲学、芸術を一緒にしようと考えていました。そのため、17、18歳の時点で美術館というものに興味がなかったそうです。

ネオダダに短期間参加後の1961年、幼少より「死」という与えられた人間の宿命をのりこえようとニューヨークへ渡ります。10数ドルのわずかな資金と瀧口修造の紹介で知った現代美術の巨匠・マルセル・デュシャンの電話番号を握りしめ、マンハッタンへ旅立ちました。

修作は、NYでかの有名なボブディランと一時期、一緒に暮らしていたことでも有名ですね。ディランは修作が自分のことをあまりにも認めてくれないので「俺、結構有名なミュージシャンなんだ」と自分の全レコードを差し出したところ、修作は「音楽なんでクソだ!」と全部投げ捨てたそうです。何だか三島由紀夫とのエピソードを思い出してしまいますね。

渡米後にデュシャンと出会った修作は、自分が試みようとしていた表象的な図形・記号・言語を用いた精神の世界の表現や創作をデュシャンがすでに体現し、突き詰めていたことを知ります。それを超えるためには、身体・肉体に向かわなければならないと考え、そのテーマを自身に課すことにしました。

デュシャンにひどく気に入られた修作は、アンディ・ウォーホルやジョン・ケージなどアメリカを代表するアーティストやギャラリーと親しくなり、数年の内に異国の地でアーティストとしての立ち位置を確実なものとしました。

また、パートナーのマドリン・ギンズと出会ってからはともに活動をスタートさせ、人の意識や認識の背後にある構造を考察し始めます。シルエットや矢印、線、写真、色のグラデーションなどのモチーフを複合的に用いて絵画化した「ダイヤグラム(図式)」シリーズなどを経て、1970年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、言葉がイメージや物のシンボルとしてだけでなく、ほかの記号・形と並列的に自律して描かれた『The Mechanism of Meaning(意味のメカニズム)』 という連作を発表しました。この『意味のメカニズム』によって、絵画へ引導を渡し、以後は人間の身体と経験に焦点を当てた作品や建築へと活動をシフトしていきます。

1972年にドイツ政府の奨学金で西ベルリンに約8か月滞在して、ヴェルナー・ハイゼンベルクをはじめとする多くの物理学者・生物学者と関係を結びました。同年に「意味のメカニズム」展がドイツ各地を巡回。平面作品として評価されただけでなく、そこに描かれた内容が意識についての本質的問題を主題としていたため、物理学者や科学者、哲学者などからも激賞を受け、彼は世界的に広く知られるようになっていきます。

70年代、80年代は主に欧米を中心に数々の個展を開催し、美術界の最先端に位置することになって行きます。90年代からは建築も手がけ、通常の美術家や芸術家の概念では捉え切ることができなくなった自身の活動領域を「コーデノロジスト(科学・哲学・芸術の統合に向かう者)」と称しました。その活動は、世界の著名な哲学者や分子生物学者からも注目され、欧米では修作とギンズをめぐる国際カンファレンスも開催されるほどです。

「私は、死なないことに決めた」と言い続けた修作は、2010年5月19日にニューヨークの病院で亡くなりました。享年73歳でした。パートナーのギンズは4年後にこの世を去りました。

誰もがいつかは必ず死ぬという天命を、脳で諦めて生きている人間の精神を「死ぬことは間違っている」 ということを実感することにより、死すべき運命を根底から覆す「天命反転」を企て、二人はその生涯をかけて取り組んできました。死後に「本当は亡くなってなどいないのかもしれない」と言われた修作ですが、今も観者に問いかけ、その中に生き続けているのかもしれません。

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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。

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