買取実績

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皆川淇園

掛軸

皆川淇園

買取地区:
名古屋市内
買取方法:
店頭買取

買取価格¥10,000

江戸中期の京都を代表する儒者・皆川淇園(みながわきえん)の四行書を買取いたしました。こちらには、安政時代に書かれた箱書きが付いています。

皆川淇園は、幼いころから神童と呼ばれ「開物学」という独自で難解な学問を創始しました。詩文や書画もこよなく愛した風流人でもありましたが、このような尊敬できる大人物の筆跡を床間に飾り、ご自宅に崇高なよい気をいただくのもよいのではないでしょうか。

「開物学」は独特で思考方法が複雑なため、当時から「怪物学」と呼ばれていました。専門家でも難解で分からないといわれる手ごわい学問ですが、皆川淇園の書を床の間にかけ、深く考えたり研究されるのも面白いのではないかと思いました。

住宅環境の変化により床の間が減少し、お値打ちにお求めいただけるよい掛軸がたくさんございます。江戸時代の円山応挙や伊藤若冲の時代の掛軸など、幅広くお取り扱いしておりますので、気になった方はお気軽にお問い合わせいただけますと嬉しいです。

皆川淇園は1734年に京都正親町坊(現在の京都市上京区三丁町)に生まれます。父は東福門院御殿医の皆川成慶(号は春洞)で、実弟に国学者・富士谷成章がいます。淇園は九人兄弟の二番目の子で長男でした。幼い頃から学才の片鱗を示し、5歳頃に父が中国盛唐の詩人・杜甫の詩を授けたところ、すぐに暗記をしました。また読書をすると、一読してその内容を記憶したといわれています。

弟・成章もとても利口で、父は熱心な教育をしました。1748年、朝鮮通信使の来訪時に弟・成章と見に行き、席上で詩を唱和して通信使を驚かせたといいます。幼少の頃、淇園と成章の師であった儒学者・大井蟻亭は、自ら作った漢詩でこうした淇園の神童ぶりを称えています。淇園は蟻亭の他にも、伊藤錦里や三宅牧羊などにも学びました。 淇園は大変な読書好きで、朝早くから机に向かい食事中も本を読み、門下生や来客があっても机の前を離れず、その人が帰ればすぐに読書に戻るほど、わずかな時間でも目が書から離れることはなかったそうです。難解な字句については他事が一切目に入らないほど集中し、理解することができた時にはとても喜んだそうで、学問が心底好きだったであろう淇園の人柄が窺うことができますね。

10代の頃から漢字の字義と易学に関心を持っていましたが、安永・天明年間(1772~1788)にそれらを総合して開物学という学問を創始しました。開物とは、字義を音声によって把握し、「名」によって「物」がみえてくるようにすることです。この方法で儒学用語を定義し直して『名疇(めいちゅう)』(天明4年序)を著しました。1759年より京都・中立売室町西入町に住み、儒学を講じて多くの儒者を養成します。儒学者・漢詩人の江村綬(えむらじゅ)の錫杖堂詩社に影響され、1784年に柴野栗山や赤松滄洲らと共に三白社という詩社を起こしました。

1806年、淇園は自宅の西隣の土地を買い、私塾・弘道館を設立します。この場所で、京都近辺だけでなく、江戸、東北、北陸、四国、九州など全国各地から集まった人々に自身の哲学を教えました。 6歳の少年から最高齢は66歳まで、門弟は三千人を超え、その中には庶民だけではなく大名も名を連ねていました。受業門人帳には、二十年の期間にも及ぶ随筆『甲子夜話』の著者・平戸藩主松浦静山や、丹後の宮津藩主松平宗允、膳所藩主本多康完、亀山藩主松平信岑などもいました。

淇園が生きた江戸中期、1750年代前後には、庶民文化の中心は上方から江戸に移りますが、公家や上層町人がたしなんでいた学問や芸術は、京都に平安時代からの長い蓄積があり、全国各地から多くの若者が学びに来ていました。京都には伊藤仁斎の古義堂をはじめ、私塾がたくさんあり、弘道館もそのひとつです。多くの人に開かれた学びの場で、よく学び、よく遊び、人が人に出会う場所でした。

淇園は学問だけではなく、詩文、書道、水墨画にも優れた風流人だったため、多くの有力武士から重用されました。書は王羲之を好み、画を望月玉仙や円山応挙に学び、特に山水画を得意としたそうです。画家の呉春、岸駒、長沢蘆雪や国学者の上田秋成、俳人・与謝蕪村などと交遊がありました。当時の文人たちも好奇心旺盛で、ジャンルを問わず多くの雅号を名乗り、異分野の交流が盛んでした。

弘道館を設立した翌年の1807年、淇園は5月16日に74歳で病によって亡くなります。門弟を始め、京都の人々はその死を惜しみ、葬式にはおよそ数千人が訪れたそうです。墓表は松浦静山の撰と本多康完の筆によるものです。

弘道館の建物は幕末の大火で一度は焼失しており、その後、嶋臺(しまだい)12代・山田長左衛門らに渡り、改築を重ねます。現在残っているのは明治時代に復元、その後昭和に一部増改築されたものです。茶室「有斐斎」や、表千家8代啐啄斎好みの7畳写しの「汲古庵」、煎茶や香席に適した10畳の広間、桑の杢板の付書院、仏壇など、凝った造りとなっています。

 

1734年 京都生まれる
1752年 阿波国に一ヶ月ほど旅行する
1755年 江戸と京都を往還する
1761年 亀山藩主松平信岑の聘に応じ賓儒となる
1762年 子の篁斎(1762−1819)が生まれる
1764年 亀山藩、幕府の命令によって朝鮮通信使を枚方で遇する
1767年 春に尾藤二洲(儒者で寛政の三博士の一人)が入門
1768年 甥の富士谷御杖(国学者)が生まれる
1776年 秋に巌垣彦兵衛(儒学者巌垣松苗の父)が入門す、妻(亀山藩松平熈房の妹)が亡くなる
1779年 父・皆川成慶が亡くなる、 弟・成章が42歳で亡くなる
1784年 柴野栗山と三白社盟を修める
1785年 淇園の友人であった清田儋叟が亡くなる
1791年 平戸藩主の松浦静山(随筆『甲子夜話』の著者)が入門する
1793年 長女が亡くなる
1797年 妻(亀山藩小関清右衛門の妹)が亡くなる
1800年 丹後宮津藩主松平宗允(1780-1816)が入門
1805年 孫の皆川子温が生まれる、弘道館を京都中立売室町西に設立、 同年平戸藩主松浦熈(1791-1867。松浦静山の三男)が入門
1806年 弘道館が落成
1807年 病気になるも病床で講義を行う、5月16日、数え年 74歳にて没する
1808年 松浦静山が淇園の墓表を撰する

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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。

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