買取実績

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橋本雅邦「寿老の図」

掛軸

橋本雅邦
「寿老の図」

買取地区:
名古屋市内
買取方法:
店頭買取

買取価格¥20,000

橋本雅邦「寿老の図」の掛軸を買取いたしました。こちらは、室町時代後期の禅僧である雪舟の「寿老図(重要美術品)」が元図となっておりますので、二人の作品を見比べてみるのも面白いかもしれませんね。

幕末から明治にかけて活躍した橋本雅邦は、1835年、松平周防守の御用絵師で狩野養信門下の画家であった橋本養邦の長男として、江戸の木挽町狩野家邸内で生まれます。5歳の頃から実父より狩野派の手ほどきを受け、1846年に狩野養信に入門しますが、養信はこの一月後に亡くなってしまったため、後継者である狩野雅信(勝川院)の下で画業の研鑚を積みます。雅信より一字拝領し、勝園雅邦(ただくに)と号しました。

この一年前に狩野芳崖も入門しており、激情家の芳崖と7歳年下で穏和な人柄の雅邦との性格は正反対でしたが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となります。雅邦と芳崖は早くも頭角をあらわし、1857年23歳で塾頭となりました。狩野芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」「勝川院の竜虎」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めました。

1860年に雅邦の号を与えられ、絵師として独立を許されます。同年、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚しますが、狩野派絵画の需要減少と幕末維新の動乱に際し苦しい生活が続き、絵師としての活動は低迷します。

1870年に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまいます。とめ子は発狂し、雅邦は病妻を亡くなるまで世話をしました。翌年には出仕していた川越藩も廃止され定職を失いますが、1871年より兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになります。こうした中、36歳の時に西洋画の油絵に出会い衝撃を受けます。遠近法などの技法を取り入れるなどして西洋画の技術の研鑽を重ね、雅邦ならではの境地を開拓しました。1877年には山口県に帰郷していた狩野芳崖が上京し、ともに画業の研鑽に努めました。

1882年に開かれた第1回内国絵画共進会へ出品した『琴棋書画図(きんきしょが)』が銀牌第一席を受賞します。米国の哲学者・美術研究家であるアーネスト・フェノロサや岡倉天心と出会ったのもこの頃でした。1884年にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになります。

1886年、海軍兵学校を辞し、新たな日本の絵画表現の確立を目指す岡倉天心、フェノロサらの東京美術学校設立に携わりました。もともと「日本画」という言葉は西洋画への対立概念として生まれたものでした。フェノロサと天心は、日本の伝統的な絵画が廃れてしまうという危機感を抱き、伝統絵画の復興運動に参加するよう雅邦に懇願しました。このとき芳崖も一緒で、二人は新しい表現技法を模索し、東京美術学校の開校に向けて準備を進めます。狩野派の描法を基盤としながら日本画と西洋画を両立させた画風を確立し、日本画の発展に貢献していきます。

1888年、美術学校開校を目前に芳崖が亡くなり、絶筆の《悲母観音》を仕上げます。翌年、東京美術学校絵画科の主任に就任しました。東京美術学校では、横山大観、菱田春草らの多くの画家を育て上げました。またこの時期に、宮内省による美術・工芸品に関する顕彰制度である帝室技芸員のメンバーに選ばれています。

1898年、岡倉天心が美術学校騒動で東京美術学校を去るにあたり、横山大観、菱田春草らとともに雅邦も辞職し、天心と共に日本美術院の創立に携わりました。美術院での活動の傍ら後続者の指導も活発に行い、近代日本画の旗手を育成しました。次男の橋本永邦(はしもとえいほう)と三男の橋本秀邦(はしもとしゅうほう)も日本画家になっています。1908年に胃癌のため72歳で死去、その年の正月に狩野派の古例に倣い、病身で描いた宝珠三顆の図が絶筆となりました。

雅邦の作品は、国内のみならず、海外でも広く評価されています。1900年のパリ万国博覧会に出品した『龍虎図』は銀賞を受賞、1904年のセントルイス万国博覧会では『林間残照図』が最高賞を獲得しました。狩野派の繊細な線使いで構成し、伝統的なモチーフでありながら、遠近法や色彩の新しい要素も取り入れており、その新鮮な美しさは当時の鑑賞者を圧倒したことでしょう。また技術ばかりではなく、精神や想像力などの心持ちを表すことも重視していたといいます。絵から伝わってくる気迫は、雅邦の深い精神性からきているものかもしれませんね。日本画の黎明期に生涯にわたり創作活動を続けながら後進を育て、重要な役割を果たしました。

【橋本雅邦 略歴】

1835年 東京木挽町に生まれる

1846年 狩野養信に入門

1848年、父・養邦の死により若くして跡を継ぐ

1860年 「雅邦」の号を貰い絵師として独立

1871年 兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった

1882年 『竹に鳩』が宮内省の御用となる

1884年 フェノロサが鑑画会を発足、早い時期から参加し盛んに制作を行うようになる

1886年 海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになる

1889年 芳崖死去、その絶筆である『悲母観音』の仕上げを任される

1898年 岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加

1898年 主幹となり日本美術院を創立

1908年 死去 、享年72歳

 

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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。

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