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2020年8月31日

雲居希膺の掛け軸を買取いたしました。

雲居希膺 (うんごきよう)
 
「初祖菩提達磨大師」と一気呵成に書き下した八字一行書。禅宗初祖の名号であることから「初祖号」とも呼ばれる。
1582-1659
 
 
 
 
 
 
 
 
桃山時代から江戸時代前期の臨済宗の禅僧。
土佐小方出身 天正10年生まれ。
京都妙心寺の蟠桃院の一宙東黙の法をつぐ。
19歳から34歳まで一宙のもとで修行をつんだ。
雲居が26歳の時、妙心寺山内の若手、愚堂、大愚、了堂、洛浦など、6、7人の仲間で名師のもとに参じようと諸国遊歴の旅に出ている。
慶長12年、まず奥州の仙台覚範寺の虎裁宗乙和尚を訪ね、平泉の館で詩を唱和している。
33歳で一宙より印可を受け一層の修業に励むが、34歳の時、人生の一大転機が訪れる。数年前にさかのぼりここで塙直之の話に触れたい、塙直之は加藤嘉明の家臣として関ヶ原の戦いで嘉明の軍令に背いたとして嘉明に追われることになり、一時期妙心寺の僧となり身を潜めていた。雲居はこの頃親交を結んでおり、その後、諸国遊歴で奥州から駿府の臨済寺を訪れた雲居は、その近くで偶然塙直之に再開する。旧交をあたため、将来雲居の外護者となる約束をした塙直之は、自分の甲冑を雲居に預けて別れる。それから7年後の元和元年、大坂夏の陣で塙直之が大坂城にいることを知った雲居は、彼と死を共にしようと預かった甲冑を身につけて大坂城に入り込もうとしたが、敵方に見つかってしまい幕府の咎めを受ける。しかし、この時尋問を行なった京都所司代板倉勝重は、雲居の塙直之に対する義侠心に心を打たれ、雲居を許すように計らった。
これによって、無事に妙心寺に帰れた雲居は、それまでの宗佐という名前を改め雲居希膺の諱号を名乗り、妙心寺の首座となりました。
その後、各地を遊歴し名利栄達を避けるように隠棲する雲居であったが、寛永11年、その名は学徳兼備の名僧として御水尾法皇の耳に届くことになる。
法皇の招請に雲居の固い辞退も叶わず、宮中に呼び出され法皇に御前講和を講じている。
その後も召されるが、今度は仮病を理由に断りなんとか切り抜けるが、これがきっかけで雲居の声望はいやが上にも広がり、寛永13年には仙台の伊達政宗が、雲居を松島の瑞巌寺の住持に招請する。
伊達政宗は奥州仙台藩六二万石の基礎を築いた武将で、当時衰退していた松島の瑞巌寺を再興しようと名僧を捜し求めていた。政宗の招きを固辞したものの政宗は5月に逝去し、同門の単伝士印の熱心な説得によってようやく承諾し8月21日に瑞巌寺に入寺する。
その後の雲居は、寺内の規約を制定して綱紀を粛清し自ら大衆と共に作務、看経、座禅に励み贅沢を嫌い清貧を身を以て示した。
そんな雲居を慕って全国から大勢の雲水が瑞巌寺に訪れ、瑞巌寺は奥州最大の禅道場として隆盛していくのである。
雲居は、慶安2年68歳で弟子に瑞巌寺に住持を法嗣の洞水東初に譲って引退し、仙台郊外江六村綱木山の大梅寺を賜って移り住んでいる。
万治2年8月8日「水鳥樹林、全てが私の偈である」と弟子に言い残し、78歳で遷化する。
諡号(しごう)は慈光不昧禅師、大悲円満国師。別号に把不住軒。
著作に「般若心経大意」。
 
 
 
 

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